「信じぬものも救われる」は結論ではない

こんにちは、田部です。

サイトのトップページにもあるように、桶教のスローガンは「信じぬものも救われる」です(画面上の新興宗教桶教のロゴからトップページに移動できますので、見たことのない方は一度ご確認ください)。キスメ様の分け隔てない救いは、桶教で伝えたいことの一つです。しかし、それがこの言葉の全てではありません。今回は、桶教が「信じぬものも救われる」という言葉で伝えたいもう一つの意味についてお話します。

信じぬ者も救われる……それなら?

私はキスメ様にお会いしたときに、圧倒的な救いを感じることができました。しかし、それと同時に一つの疑問が生じました。

「救われることがわかったけれど、救われるまでに何をすればいいのだろう?」

はてさて、何をしても救われるとなると、かえって困ってしまいますね。多くの宗教が何をしたら救われるかを事細かく決める理由も、今となっては何となく理解できます。当時の私は思い悩んだ末に、桶教を作ってキスメ様を広めてみることにしました(この辺りの経緯は、また後日詳しくお話できればと思います)。

そうして生まれた桶教で伝えていることは唯一つ。キスメ様は信じぬものも救われるということだけです。守るべき決まりも行うべき儀式もありません。ですが、「信じぬものも救われる」というのは答えではありません。ただ救われることを知って私が悩んだように、皆様にも救われるまでの間に何をするべきか悩んでもらいたいのです。つまり、「信じぬものも救われる」というのは、「救われるまでは何を信じるか」という問題なのです。

釈迦の逸話の一つに「毒矢のたとえ」というものがあります。弟子の一人が「死後の世界はどうなっているのか」と訪ねたところ、釈迦は「どこからか飛んできた毒矢が己に刺さったときに、誰が毒矢を打ったのかなどをウジウジ考えていては、何も得られぬまま無駄に死ぬだけ。するべきことは刺さった箇所の治療をして生きることだ」と返します。続けて「もし仮に私が死後の世界を教えても、今度は死後の世界について悩むようになり、明確な答えも死ぬまで得られない。生きているうちに、生きることについて悩んで答えを得るべきだ」と話し、弟子は大いに納得した……というものです。

宗教とは悩みを解消するためのアドバイスですが、「どうすれば人々は救われるのか」という悩みの積み重ねでもあります。もしあなたが抱えている悩みをどうすればいいのか迷っているならば、宗教に積み重ねてみませんか。どの宗教に重ねていいのか分からなければ、どうぞ桶教に重ねてみて下さい。何を悩めばいいのかすら分からず途方に暮れているのなら、共に悩みを探しましょう。

キスメ様も死後の世界の道理を私達に伝えませんでした。死んだ後のことは気にせず、生きるとは何なのか大いに悩んでみませんか。全ての悩みを重ねるために、桶教は自由なのです。