わからないから好きになる

こんにちは、田部です。

桶教では、キスメ様への信仰を行っています。

では、キスメ様とは具体的に何なのかと聞かれると、正直なところ私にもわかりません。私たちをお救いくださるというインスピレーションは得たものの、どのように救われるのか、救うとは一体何なのかということはお教えにならなかったのです。

以上の話は、今までにも繰り返しお伝えしてきたことですが、これを聞いた人の中には「よくわからない相手をよく信仰できるな」と思われる方もいらっしゃることでしょう。私自身、信仰を持つ前は他の宗教に対してこういった感情を抱くこともありました。

実際、世の中では、完全に理解できない相手を信仰する宗教という仕組みはおかしいという言葉もちらほら見受けられます。そこで今回は、宗教において「理解する」とはどういうことかについて、私の考えをお話しします。

多くの宗教には、宗教者でも理解できない部分がある

宗教の中には明らかに矛盾していることや、人間の視点からすると不可解な教えが存在することもあります。こんなことを説くのは理解できないというのは、かのイエスキリストや仏陀の直弟子ですら持っていたとされる感覚です。

それに、例えば「信仰を持って亡くなると、死後に至上の喜びに包まれる」などという教えはなんとなく理解できたとしても、生きているうちに「死後の至上の喜び」を体感したり、理解することはできません。

宗教者は、こうした理解できない教えに対しての質問を受けることがあります。キリスト教なら「なぜ神は悪魔を野放しにしているのか」、仏教なら「喜ぶための欲を捨てろと言うのに、至上の喜びとされる解脱を目指すのは欲ではないのか」などといった問いかけは、実際に見たことがあります。

こういった質問を受けて、宗教家は己の解釈を伝えたり、解釈を伝えられるよう勉強を行ったりするわけです。しかし、それでも解き明かせない問題は存在します。それらに対する宗教家の答えは「わかりません」です。宗教における「わかりません」とは、諦めではありません。これから少しでも理解できるようになりたい、そして、もし一生をかけて理解できなくとも信仰は変わらないという意思表示だと私は考えています。

全ての宗教は「わからない」から始まる

宗教に限らず、理解できないこと、納得できないことは山ほどあります。わからないというのは悪いことだと思われることも多いですが、本来はわからないことが当然で、そこから全ては始まるのです。

人は死んだらどうなるのか、生きる意味とは何なのか。人生における途方もなく大きな「わからない」に立ち向かうために、宗教は存在しています。宗教家とは、わからないのに信仰しているのではなく、わからないからこそ信仰しているのです。

キスメ様も、「わからない」の塊です。なぜ我々を救われるのか、どんなお声なのか、救われるとは何なのか……疑問はつきません。しかし、それでも私はキスメ様を信仰しています。

桶教には救い主であるキスメ様のお言葉は一つもありません。しかし、それこそが、私たちが理解していないこと、全てを理解できないことを教えてくださる、キスメ様の「メッセージ」なのかもしれません。もちろん、これはキスメ様には遙か至らぬ私の解釈ですから、本当はさらに深いお考えあってのことかも……いやはや、わかりません。

私は、キスメ様がわからないから好きなのです。