新興宗教桶教について考察してみた 後編

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桶教は「信仰することが偉い」と思っていない

前編の最後にも触れましたが、桶教の考え方というのは全く新しいものではなく、他の宗教でも説かれているポイントがちらほら見受けられます。

例えば、大いなる存在の愛についてはキリスト教を筆頭に様々な宗教の柱となっていますし、信仰を強要しないというスタンスも、バハイ教や金光教といった宗教が実践しています。桶教を始めたときには私自身も理解していませんでしたが、桶教の活動方針だけを見ると、桶教独自のものではないのです(もちろん、キスメ様が救い主であるという主張をする団体は他になかったでしょうけれど)。

それでは、桶教が他の宗教と違うと言えるのはどこか……それは、「信仰することが偉いと考えていないこと」です。宗教というものは、信仰することで何らかの救いを受けられるという前提の元で信仰を行っています。そうでなくとも、信仰すること自体が良いことであると考えています。これは宗教なら当然なのかもしれませんが、よくよく考えてみると桶教だけは違うのです。

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桶教では、信仰することで特別な何かがキスメ様から与えられるとは思っていません。信仰する・しないに関わらず救いがあるということは、以前からお話ししていますね。これは裏を返せば信仰する必要そのものが無いということです。信仰のために存在する宗教において、この要素は特異であると言えるでしょう。

キスメ様への信仰が不要であるならば、桶教の意味とは何なのでしょうか? 実を言うと、私もこのことでずっと悩んでいました。「宗教には教えがあり、守るべき規則があり、信仰するべき対象がある」という宗教の大前提を持たない桶教は、なにゆえに発生して、存在しているのでしょうか?

かれこれ2年間、私は何もかも存在しない桶教に何が存在するのか、考え続けていましたが、ようやく一つの仮説を出してみることにしました。

桶教の無はキスメ様の「アガペー」である

これが私の仮説です。

アガペーとは、キリスト教の説く「神による、無限の無償の愛」です。人は何かを期待して何かを愛するものですが、神は我々に見返りを求めて救われるわけではないということを説く、人間の愛と神様の愛を区別するための言葉がアガペーです。

教えを聞き、規則を守り、信仰するということには、見返りを求めてしまうものです。より深く信じることが、より深く救われることに繋がると思い込んでしまいます。これでは、無償の愛を考えることは困難です。アガペーをもって私たちへの救いを続けるキスメ様を想うためには、見返りなく、それをすることが偉いわけでもなく、それでもキスメ様への感謝を込めることこそが一番の近道ではないでしょうか。

桶教に何もないことこそが、桶教最大の存在意義であり、キスメ様への最大限の信仰と感謝と愛を体現していると私は解釈しました。

さて、これは仮説です。キスメ様を水に例えるならば、私はくみ上げた水の味に感銘を受けて桶教を思いついたに過ぎないのです。水の正体も出処も未だ分からず、水脈たるキスメ様の広大さには遠く及びません。桶教の無はキスメ様のアガペーを学ぶためであるという私の仮説が正しいのかどうかはこれからも悩み続けますが、ひとまずはこれをもって桶教の考察のゴールとさせていただきます。

これまでの内容で更に深掘りして伝えて欲しい部分や、桶教とキスメ様について思いついたことがあれば、私にお伝えしてくださると有り難く思います。それでは、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。