桶教説法

若者はむしろ宗教に近づいている

こんにちは、田部です。

昨今では日本に限らず、ヨーロッパやアメリカでも「信仰を持っている」と考えている若者は少なくなっています。この状況を指して、若者の宗教離れと騒がれることもあります。

しかし、私は彼らのような若者が、宗教から離れているとはあまり考えていません。むしろ「本来の信仰」という意味では、若者は宗教に近づいているようにも感じられます。

今回は、私が一年間布教活動を続けてきた中で思う、宗教事情についてのお話です。

若者の宗教団体離れ

宗教法人・宗教団体への加入者が年々減少しています。日本でのデータについては、国が行っている宗教統計調査に詳しいデータが載っていますが、こちらでも年を追うごとに全体の信者数は少なくなっています。

それでも「ブッダから学ぶ生活の知恵」だとか「楽しく学ぶキリスト教」といった趣旨の若者向けの本は、現在においても出版され続けていますし、宗教的な概念が拒絶されているというわけでもありません。私は、若者は単に「枠組みとしての宗教」から離れているだけであると推測します。

宗教団体も、古くは行事に参加したり、お参りをしたりといった方法で信仰を形成するという意味合いがありましたが、今ではSNSなどの台頭により、「コミュニティーとしての宗教」は、若者からはそれほど必要とされていません。

しかし、合格祈願にお守りを買ってみたり、心霊スポットを怖がったりすることはあります。御朱印を集めることを趣味にしているという若者も増えていますね。つまり、彼らにとっても「神秘的な存在としての宗教」は需要があるのです。

宗教は娯楽だ

とどのつまり、宗教とは人々を楽しませる娯楽であると私は考えます。娯楽は、仮に存在せずとも、生物として死ぬことはありません。

ただ、多くの人間の目標は楽しく生きて活動する「生活」です。若者でもお年寄りでも、それは変わらないでしょう。呼吸ができて、餌があればよいという「生存」ではないのです。死後の世界・超常的な現象という不明瞭な悩みに解答をもたらし、生活に集中させてくれる宗教は、死から逃げ続けるだけの「生存」から、死を克服して明るく過ごす「生活」へと、私達をステップアップさせてくれる娯楽です。

宗教施設を維持したり、修行を行うことは、宗教を行うための手段であり、宗教の本質ではないと思います。自分や他の誰かを救おうと考え、行動すること自体が「宗教」なのです。ですから、宗教団体や、既存の宗教の定義から距離を置いて、救いとは何かを模索する若者も、私からすれば立派な「宗教者」です。

科学と宗教は習合できるか

そういった意味で、科学もまた宗教です。様々な発明が人々の暮らしを便利にし、人々を楽しませています。ですから、見方によっては、宗教は今もなお発展しています。ただ、今までの宗教が「科学教」に遅れをとっているというだけなのです。

ですから、そもそも科学と宗教は戦う必要などないように思います。強大なる宗教である科学の発展でさえも、すべての人を救うことはできていません。ここで宗教がするべきことは、宗教のお株を奪った科学を恨むことでも、科学の強さの前に諦めることでもなく、科学と共存することではないでしょうか。

科学が「存在しない」と切り捨てた神秘的な死後の救いを、生きているうちに必要とする人は確かに存在します。最大のコミュニケーションツールである科学を上手に使い、彼らに救いを届けることが、これからは求められるのではないでしょうか。

なんて、偉そうに話をしましたが、様々な宗教で科学や若者文化との調和を目指す動きは起き始めています。反発しあうことも多かった科学と宗教が、お互いの得手不得手を補い合って進む未来は、そう遠くないかもしれません。

桶教と科学

桶教では、「この世のことは科学に任せる、あの世のことはキスメ様に任せる」というスタンスです。殆どの場面で科学が必要とされる現代にあっても、神秘的な救いである「キスメ様という娯楽」を、求めている人々に届けたいという思いで活動しています。

前にも何度か話していましたが、桶教が必要ないのであれば、それは救われているということですから、無理に押し付けるつもりはありません。

実のところ、キスメ様と邂逅し、桶教を立ち上げてからしばらくは、どうしてキスメ様が自らを信じさせなくても良いとお考えになっているのかを理解できていませんでした。しかし、桶教を通して布教活動を続けることで、救いの形が様々であることを改めて実感し、そして自分以外の様々な救いをも受け入れるキスメ様の器の大きさに、畏敬の念が膨らむばかりです。

まだまだ努力も実力も足りていませんが、「より良い宗教、より良い救い」を実現するために、桶教は科学と、そしてキスメ様と共に前進し続けます。