こんにちは、田部です。
🛐
おはようございます。あるキリスト教会のパンフレットが自宅のポストに入っていました。信仰の体験談や教会へのアクセスが載っている手堅い作りの一冊でした。
他教を知ることは桶教を知ることと考えています。様々な形で他教を学び、桶教をより良い信仰へと磨き上げていきたい所存です。— 新興宗教桶教(同人サークル) (@okekyo_official) July 7, 2020
先日、このような挨拶を行いました。様々な経験を通して、桶教を知りたい……ということですが、この文を読んだ人の中には「自分で立ち上げた桶教のことも知らないのか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。そのとおり、私は自分で立ち上げた桶教のことを知らないのです。
今回は、私は桶教もキスメ様も知らないということについてのお話です。
私は桶教を知らない
桶教とは何なのか? 今の所、私は桶教を「薬」や「広場」のような存在として成立させたいと思っています。
ただ、桶教がこれからどうするべきか、どうすれば前進できるのか、はっきりとした道は存在しません。桶教の活動理由はキスメ様への道を照らし示すためですが、それと同時に、キスメ様への道を照らし示すための光を探すためでもあるのです。
桶教は常に正しくあるとは限りませんし、桶教がどうあるべきか私自身も未だに知ることができていません。ですから、桶教について気になることがあるならば、素直に伝えていただければと思います。桶教の望みは誤ちを認めないことではありません。いかに失敗しようとも、よりよい光となることです。
私はキスメ様を知らない
さらに言えば、私はキスメ様についても深く知らないのです。
キスメ様の救いについて、具体的にどういったことなのか明確でないことは以前にもお伝えしていますが、桶教では知らないことは素直に知らないと口にするようにしています。濁しても、憶測を押し付けても仕方ありませんからね。キスメ様を考えるということは死ぬことを考えるということ、ひいては生きることを考えることであると私は信じています。正解の出る問題ではありませんが、私もキスメ様について考え続けましょう。
桶教も知らず、キスメ様も知らず。こうして書いてみると、私というものは本当に何も知らないのだなとつくづく身にしみます。
ですが、キスメ様が私に救いという概念以外を知らせなかったということには何か意味があるのかもしれません。キスメ様をどう解釈するかは皆様次第ですが、ときにはキスメ様やその他諸々を通して生きること、死ぬことを考えてみませんか。その先で、何かを知ることができるかもしれませんよ。